式内 高負神社(豊岡市日高町夏栗)
概 要
社号 式内社 但馬国気多郡 高負神社
読み 古 タカフ、現 たこう
俗に白山神社若しくは白山権現と云う
所在地 兵庫県豊岡市日高町夏栗字秋葉山116-1
旧地名 但馬国気多郡高田郷夏栗村(矢集(ヤヅメ)邑)
『国司文書別記 但馬郷名記抄』矢集(ヤヅメ)邑
御祭神 白山比賣命(シラヤマヒメ) 菊理比賣命(ククリヒメ)
『国司文書・但馬神社系譜伝』祭神 大穀矢集連高負命
例祭日 10月7日
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
但馬国(タヂマ・たじま):131座(大18座・小113座)
気多郡(ケタ):21座(大4座・小17座)
『気多郡神社神名帳』記載三二社のひとつ
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳(人皇四十一代持統天皇三年(689)『国司文書・但馬故事記』)
本殿様式 流造板葺
境内摂末社(祭神)
なし
一口メモ
国道482号線久斗トンネルを抜けたところが夏栗区。自宅から近い式内社。夏栗区の善福寺のある西端を最奥まで車で進む。畑仕事をされていた付近の人に尋ねると、そこからは歩いて山頂まで参道になっているそうだが、熊が出るかも知れないと言われたので諦めた。最近はどこも熊や鹿などが多く出没している。(2011.8.28)
夏栗区の友人から集落の東端に神社まで車で登れる道があることを聞き、天気がいいので、2012.4.28、「主権回復の日」に当たるのにふさわしい郷社であろう高負神社へ。麓にも社がある。社号も扁額もないが高負神社の末社だろうか?(あとで聞くと高負神社の麓の遥拝所らしい)
道は軽四なら充分な幅の道だが、最近の豪雨によるものなのか、かなりの凸凹道でカーブが多くかなり遠い。山間部は未舗装だが、しばらく進むと平坦な場所に出た。コンクリート舗装されていて頂上の神社まで行けた。
式内社の割には小さな社の部類であるが、現在のご祭神:菊理比賣命は、加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神と同一視とされる。どういうわけか祭神は同一神なのに二神が併記されているようだ。別々の神とみなされている。
ウィキペディアによれば、菊理比賣命が白山比咩神と同一とされるようになった経緯は不明である。
白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の祭神について、伊奘諾尊・伊弉冉尊と書物で書かれていた時期もある。菊理媛を白山の祭神としたのは、大江匡房(1041-1111)が扶桑明月集の中で書いたのが最初と言われている。
通称は白山神社と呼ばれており、拝殿の扁額には「白山権現」とある。
歴史・由緒等
「日高村郷土誌」
大字夏栗村 式内村社 高負神社(俗に白山神社もしくは白山権現と云う)
祭神 矢集連高負命(やづめのむらじたかふのみこと)
当社は延喜式内の古社にして中古より両部神道と為り、高負の社号を改め白山神社 白山権現など称せしも、明治三年太政官布告に基づき、旧称に今高負神社とす。当村65戸の鎮守神にして俚人の崇敬甚だ厚し。まことに往昔より武神として代々の領主の信仰浅からず、神帛を給いて之を祀れり。
人皇41代持統天皇の朱鳥3年、進大弐 忍(海部(おしぬみべ)の)広足、多遅麻の大穀と為るや、久斗の兵庫鎮護の神として久刀及び兵主の神に兵庫の側に祀り、高負の神を高田の丘に祀り、大売布の射楯丘に祀り給ふとあり。「但馬国式社鎮座考」には、高負神社 百済王仁或いは大己貴命(おおなむちのみこと)の太多庄大岡大明神也。白山大明神 太多庄夏栗座云々。(中略)
又、式社道志留弁には、高負神社 夏栗鎮座、白山社と云う。貞観九年大和国正六位上 高生神社従五位上
などと出たり。高生の元の高負の文字を充て用いし事は明かなるも、祭神に至っては大己貴と云い、百済王仁、或いはその末裔と云い之を証するに途なし。
(中略)
境内坪数56坪を有し、、。
創祀年代は不詳。
式内社・高負神社に比定されている古社。
「国司文書 但馬神社系譜伝」に、
祭神 大穀矢集連高負命
人皇四十一代持統天皇の巳丑(みうし)三年秋九月、少穀忍海部の広足これを祀る。
人皇三十七代孝徳天皇の大化三年、矢集連高負命をもって但馬大穀※となす。
気多軍団
『国司文書 但馬故事記 第一巻・気多郡故事記』
人皇37代(異説あり)孝徳天皇の大化3年、
多遅麻国気多郡高田村において、兵庫 を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管 どる。
宇麻志摩遅命の六世孫・伊香色男命(いかしこお)の末裔、矢集連高負(やづめのむらじたかふ)を以って、大穀(だいき)*1と為し、
大売布命の末裔・楯石連大禰布を以って少穀(しょうき)*1とす。(楯石神社:豊岡市日高町祢布の村社)
景行天皇の皇子・稲瀬入彦命の四世孫・阿良都命の末裔、佐伯直・猪熊および波佐麻を校尉(こうい)と為し、
道臣命の末裔、大伴宿禰神矢および的羽(いくは)の武矢・勇矢を以って旅師(ろそち)と為し、
伊多(井田・のち伊福、今の鶴岡)首の末裔、貴志麻侶、葦田首の末裔、千足、石作部の末裔、石井、日置部の末裔、多麻雄、楯縫部の末裔、鉾多知、美努(三野・今の野々庄)連の末裔、嘉津男等を以って隊正(たいしょう)とす。人皇41代持統天皇の己丑(つちのと・うし)3年秋7月、
左右の京職および諸の国司に令して的場(いくはば)を築かしむ。(中略)
閏(うるう)8月 進大弐 忍海部オシヌミベの広足を以って多遅麻の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習さす。
広足は陣法にくわしく、兼ねて教典に通じ、神祗を崇敬し、礼典を始める。すなわち、兵主神を久刀村の兵庫の側(かたわら)に祀り、(式内 久刀寸兵主神社:豊岡市日高町久斗)
高負神を高田丘に祀り、(式内 高負神社:々 夏栗)
大売布命を射楯丘に祀り、(式内 売布神社:射楯はのち石立、今の国分寺)
軍団の守護神と為し、軍団守護の三神と称す。『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡故事記
人皇37代(異説あり)孝徳天皇の大化3年、多遅麻国朝来郡朝来邑に於いて、兵庫を造り、郡の甲弓矢を収集し、以って軍団を置き、朝来・夜夫(養父)・七美三郡を管どる。
東隣りの久斗区(高田村)にある式内 久刀寸兵主神社と関わりのある気多軍団の大穀(だいき)*1矢集連高負命を祀ったのがはじまりである。
式内 久刀寸兵主神社の社伝によると、孝徳天皇大化三年(647年)、 気多郡の軍団に兵庫を設け、その鎮守として祀られたという。
「和名抄」では、式内 久刀寸兵主神社は夏栗の東隣久斗にある。夏栗村も高田郷となっていて、記録を信じれば、持統天皇の巳丑(みうし)三年閏八月に久刀寸兵主神社を、同じく三年秋九月に、但馬大穀となった矢集連高負命を祀った高負神社をほぼ同時期に建立したことになる。
*1大毅(だいき)、小毅(しょうき)
軍団(ぐんだん)
軍団 は、7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織である。個々の軍団は、所在地の名前に「軍団」をつけて玉造軍団などと呼ばれたり、「団」を付けて「玉造団」などと呼ばれた。国家が人民から兵士を指名・徴兵し、民政機構である郡とは別立てで組織した。当初は全国に多数置かれたが、辺境・要地を除き一時的に停止されたこともあり、826年には東北辺境を除いて廃止された。
「日高町史」によれば、但馬に設置された地域軍団の名称が確実に判るのは養父団と気多団の二つだけで、気多広井という名前がある。しかし、『国司文書 但馬故事記』によれば、但馬国最初に兵庫と軍団が置かれたのは朝来郡と気多郡となっている。
大毅- 少毅 – 校尉 – 旅帥 – 隊正 – 火長 – (伍長)
軍団は、一つの国に最低一つ、大きな国には複数置かれた。軍団の指揮系統は郡以下の地方組織に対応しており、指揮官の大毅と少毅は郡司層から選ばれた。軍団は数個郡に一つの割合で存在し、一個は国府所在郡の郡家近くに置かれ、残りの軍団も他の郡家の近くに駐屯して、訓練に従事した。
軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。
これは、消防団で言うと分かりやすい。大毅=団長、少毅=副団長、校尉=分団長、旅帥=副分団長、隊正=部長、火長=班長といったところか。
軍団の規模によって
千人の軍団(大団)は、大毅1名と少毅2名が率いた。
六百人以上の軍団(中団)は、大毅1名と少毅1名が率いた。
五百人以下の軍団(小団)は、毅1名が率いた。
(区分としては「五百人以下」と「六百人以上」の間の規定がないようにみえるが、実際は軍団は百人単位の編制であるため問題はない)
境内・社叢
社叢 社殿
拝殿 本殿覆屋
扁額 南側にある夏栗区からの本来の参道が見える
麓の社 高負神社の下宮として普段は参拝されているのだろうか。右に境内社。
地名・地誌
夏栗(なつくり)
『国司文書 但馬郷名記抄』(天延三年(975))
高田郷
高田郷は高機郷なり。大初瀬幼武天皇(雄略)の御世16年夏6月、秦の伴部を置く。養蚕・製糸の地なり。
矢集村(ヤツメ・ヤヅメ)
『国司文書 但馬神社系譜伝』
高田郷 高負神社
気多郡高田村鎮座
祭神 大穀矢集連高負命
『大田文』高田郷 村数六
夏栗 久斗 禰布 石立 国分寺 水上
鎌倉時代の但馬太田文(弘安八年十二月(1285))、の頃には、夏栗村と称していたようだ。「矢集村」がどういう経過で「夏栗村」に変遷したかは定かではないが、同じ夏に字が変わっているものに養父市大屋町夏梅という集落がある。
『但馬郷名記抄』には、
馬方郷(今は三方郷と書す)
軍馬操練の地なり。ゆえに馬工神社あり。平郡木免宿祢を祀る。
男阪村・
『但馬太田文』(鎌倉後期)には、
軍馬操練の地となれば矢を作る村が近くに必要で、矢集が「ナツメ」に転訛し夏梅と書すようになったたとも考えられ、
矢集は雧を略した略字体であり、夏栗も「ヤヅメ」が「ナヅメ」となり、「夏雧」をいつ頃からか栗と書すようになり、鎌倉後期には
いずれにしても高田郷の高田とは今の久斗区であり、そこに但馬国最初の軍団を朝来郡と気多郡に置いた。その場所が式内久斗寸兵主神社。(現在地ではない可能性が高いが)、その大穀矢集連高負命を祀ったのが式内高負神社である。おそらくその矢集連高負命の墓(古墳)がある場所である。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
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